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日本とフィリピンの「歴史的な結びつき」は?と聞かれたら、多くの日本人が最初に連想するのは「第二次世界大戦」でしょうか。最近では戦艦武蔵が深海から発見されて話題になりましたが、沈没していたのはフィリピンのシブヤン海でした。
歴史がお好きな方であれば、「ルソンとの交易」を想起されるかもしれません。大河ドラマ「真田丸」では呂宋助左衛門の再登場が話題になりました。九度山で困窮していた主人公真田信繁の所に、かつて呂宋に逃がしてあげた「たか」が交易品を携えて訪ねてきたシーンをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。安土桃山時代にはすでに日本とフィリピンとを人々が往来し、マニラには300人ほどの日本人がいたと考えられています。
「からゆきさん」という言葉をご存知ですか?時代は19世紀の後半。当時の日本、特に農村や漁村は困窮に苦しむ家庭が多く、窮余の策として「親が娘を売る」ことも珍しくありませんでした。そうした娘たちの一部は、職業売春婦としてアジア各国に渡っていきました。あの福沢諭吉が「外貨獲得の有効手段である」と奨励していたのは有名な話です。
ちなみに「からゆき」は「唐行き」ですが、この場合の「唐」は中国を指す言葉ではなく「諸外国」というニュアンスです。その行き先にはフィリピンも含まれていました。
明治から昭和初期までの期間にフィリピンに渡った日本人は、なんと5万人以上!1900年頃の記録によればマニラ周辺の在住日本人のうち25%ほどが「からゆきさん」でした。一方、ダバオやバギオなどフィリピン各地に邦人男性が農業・林業・漁業の従事者として移住しており、総人数では「からゆきさん」の何倍にもなります。
1898年からフィリピンを支配下においた米国は、夏の間だけ行政機構を避暑地バギオに移す計画を立てました。バギオに通じる「ベンゲット道路」の工事が始まったのは1901年。
多くの工夫が必要な難事業で、当時の責任者が「真面目に働き従順な日本人労働者が必須だ」と本国に要請したそうです。それを受けて1903年と04年には、5千名余りの邦人が渡航しています。
彼らが任されたのは、断崖絶壁がある最難関。事故が相次ぎ、風土病とも闘うなかで600名とも700名とも言われる邦人犠牲者を出した末に道路は完成しました。
工事が終わっても一部の邦人労働者は帰国せずフィリピンに留まりました。日本に戻っても仕事先が無かったのでしょう。彼らがやがて現地の女性と結婚し、その子孫がバギオには今も大勢暮らしていらっしゃいます。
100年以上も前に遠く日本からフィリピンに赴き、難関工事に参加した多くの同胞による献身的な働きと多大な犠牲のうえに、今のバギオがあるのです。バギオに続く山岳地帯を走るときには、当時に思いを馳せてみてはいかがでしょう。