バギオの歴史

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バギオの地理

バギオはフィリピン北部にあるルソン島のコルディリエラ行政地域にある都市であり、この地域においては中心的な都市とされています。フィリピン留学やバギオ留学を考えている人も多いとされており、避暑地としてフィリピンの国内の有名な避暑地としてにぎわっているのでおすすめの地域でもあります。

しかし、せっかくバギオ留学をすると検討しているのであれば、バギオの歴史をしっかりと把握してから言ってみるのが良いと言えるでしょう。そこで、バギオの歴史について詳しくひも解いてみましょう。1521年、世界大航海時代の頃にマゼランがセブ島に到着して以来、フィリピンはずっとイギリスの植民地支配を受けていましたが、その後1898年の米西戦争の結果わずか2000万ドルという安い金額でアメリカがフィリピンを買い取った後はずっとアメリカの植民地支配を受けてきたとされています。

バギオの歴史を知る

その支配はフィリピンが1946年に独立するまで続いたとされていますが、暑いフィリピンにおいて何とか涼しく過ごすことはできないかと考えた末に、1年を通して平均気温が26度を超えることがない絶好の避暑地でもあったバギオ避暑地として開発することからバギオの歴史は始まります。実は、バギオは昔は日本人の出稼ぎ労働者が多い地域であったことをご存知でしょうか。バギオを開発する当初、日本人の勤勉さに目を付けたアメリカ人は日本から出稼ぎに来て移民する人たちにそのバギオの道路建設を託します。

アメリカと日本の狭間に置かれたバギオ

移民した日本人たちは、劣悪な労働条件の中犠牲者も出しながらなんとか建設にこぎつけ1903年にようやく完成すると、責任者の名前を取ってケノン道路とつけられ、現地の人には日本人が作った道路と認識されているそうです。また、第二次世界大戦においてはアメリカ軍と日本軍の間でフィリピンも激戦地となったことからその避暑地であったバギオも当然激戦地となったとされています。

そして第二次世界大戦以後は日本軍によるフィリピンの侵攻や植民地化が進められる中で現地の人々は危険にさらされながらの生活を強いられるようになり戦争後もしばらくそんな状態が続いたとされています。そのため、道路を創ったり現地に残ってフィリピン人と結婚するなどして向上した日本の地位も下落して、現地の人々も戦後に命の危険にさらされるような生活をする羽目になったおかげで満足に教育を受けることができず、社会進出も遅れてしまったとされています。つまり、第二次世界大戦の犠牲となったのです。このように、実は日本とバギオはとても深いかかわり合いのある都市だったとされています。

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