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フィリピンは紀元前に東南アジアの少数民族でマレー系民族の先住民族と考えられているネグリト(Negritos)民族やマレー系民族が入ってきたことでその人口が形成されたと言われています。狩猟や採集を得意とするネグリト民族と農業や漁業を得意とするマレー系民族が定住したことからその歴史が始まります。その後も、中国・インド・イスラム商人などがフィリピンに住むようになり、貿易や交流を盛んにすることでそれらの国々の文化やイスラム教などが伝わったとされています。
フィリピンにはバランガイと呼ばれる共同体に分かれていて、首長がその地域を支配していました。バランガイは家族や親戚単位で構成されていて、バランガイ同士で時には争いがおきたり、又は協力しながら政治的な関係を作っていたため、フィリピンには統一された国家という単位は存在していませんでした。そのため、7000以上の島々からなるフィリピンには今もあ多様な文化や80以上の言語が残っており、に今もフィリピンの都市と街を構成する最小の地方自治単位としてその名が使われています。
1521年、そんなフィリピンにポルトガル人探検家のマゼランがやってきます。マゼランは、セブ島でキリスト教の布教活動とともに、現地の首長たちに服従を求めました。ですが、今ではセブ島の自治体名にもなっている当時地元の領主でもあったラプラプはこれに反対し、マゼランと戦って勝利しました。これは「マクタン島の戦い」と呼ばれ、スペイン艦隊とその司令官であるマゼランを打ち取ったことで、フィリピンでは現代でも英雄として称えられています。
セブ島では、ラプラプのモニュメントやお土産のアイテムになっているため、旅行客も彼の功績を必ず目にすることになります。
1565年になると、再びスペイン人レガスピがフィリピンに上陸し、マニラを首都とするスペイン領東インドを樹立。スペイン領東インドは、1565年から1898年までスペインが支配していたアジア太平洋の植民地のことで、フィリピンはまさにその一部として取り込まれたことになります。
当時スペイン王室から一定地域を支配し、その先住民の労働力を利用して金銭を受け取れ、更に彼らを保護してキリスト教に改宗させるというエンコミエンダ制をフィリピンに導入したことで、強制的に布教を行いました。ただ、南部のミンダナオ島やスールー諸島ではイスラム教徒のモロ族が徹底抗戦をし、今なお紛争の絶えない地域となっています。
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スペインは、フィリピンのメキシコや中国との貿易を独占し、軍艦や貿易船として利用されていたガレオン船を使って銀や絹などの商品を運んでいました。また、同時にフィリピン人に対しては高い税金や労役を課すことで、教会や修道会が大きな権力と富を築くようになります。
しかし、19世紀になるとフィリピン内の知識人や革命家がスペインからの独立を求める運動を始めるようになります。セブ島のラプラプ同様に今では国民的英雄となった(当時医師や学者でもあった)ホセ・リサールらがフィリピン国民同盟を結成し、スペインの植民地支配に対する平和的な抗議活動を起こしました。彼は後に逮捕・処刑されますが、その意思を継ぎ、後にフィリピン革命の父とも呼ばれるようになったアンドレス・ボニファシオは、カティプナンという秘密結社を結成し、武力で対抗しました。
ですが、後にフィリピン共和国初代大統領を務めることになるミリオ・アギナルド(同秘密結社に所属)との革命の方針や指導者の地位を巡って対立することとなり、ボニファシオは逮捕され、反逆罪として処刑されます。1898年にスペインからの独立を宣言しました。ただ、この独立は本当に一瞬の出来事で終わります・・
因みに、アンドレス・ボニファシオの誕生日である11月30日は「ボニファシオデー」としてフィリピンの祝日になっています。
フィリピンがスペインからの独立を果たすと、すぐにアメリカがフィリピンを植民地化しようとしたことを機にフィリピン・アメリカ戦争が勃発します。1901年に革命家のアギナルド が捕らえられ、1901年にはアメリカに降伏。1902年にアメリカがフィリピンの支配権を確立しました。
アメリカはフィリピンに対して民主主義や英語教育などを導入し、経済や社会の近代化を進めました。この時のアメリカ化が、公用語の英語化から教育・食に至るまでフィリピン文化に大きな影響を及ぼすことになります。アメリカはフィリピンに対して段階的な自治権を与え、1935年にはコモンウェルス*として独立準備期間に入ります。
1941年12月に太平洋戦争が勃発し、日本軍がフィリピンを侵略します。アメリカ軍はバターン半島やコレヒドール島で抵抗するものの降伏に追い込まれることに。1942年初頭には、日本軍がフィリピン全土を占領することになります。
しかし、1944年にアメリカ軍がフィリピンに再上陸。「I’m back. (私は帰った)」は、1944年10月20日にフィリピンのレイテ島に上陸したアメリカのダグラス・マッカーサー将軍が発した有名な言葉です。彼は1942年にフィリピンから日本軍によって追い出された際、「私は必ず帰ってくる」と約束。その後、彼はアメリカ軍を率いてフィリピンに戻り、日本軍との戦いを指揮します。彼がレイテ島に上陸した際、彼は「私は帰った」と宣言し、その約束を果たしたという背景があります。この言葉は、フィリピン歴史上で重要な意味を持っていて、いまでも広く知られています。
1945年に日本軍はフィリピンから撤退。その後、フィリピンはアメリカの管理下に戻り、第二次世界大戦後の講和条約で日本がフィリピンの独立を承認し、アメリカもフィリピン共和国として1946年に正式に独立を認めます。それとともにアメリカの統治も終了しました。
ここまで書いてきたようにフィリピンの歴史は、様々な民族や文化や宗教が入り混じった多様性に富んだものです。先住民として紀元前からネグリトやマレー系などの民族だけではなく、中国やインド・イスラム圏からの人々と文化・宗教の流入によってその多様性は作られていきます。
1521年のスペイン人のマゼランがフィリピンに入ってきたのを機に、スペイン・アメリカ・日本によって支配され、その都度多くの血が流されました。
最終的に1946年にフィリピン共和国 として独立しましたが、その後も政治的な混乱や経済的な困難に直面していきます。現在のフィリピンは、東南アジア最大の人口を持ち、日本と変わらないほどの人口にまで迫ってきています。そして、歴史的にも世界有数の多言語国家です。
フィリピンの固有の歴史や文化は?と聞かれると、これまで50回以上フィリピンを訪れている僕でも中々一言で応えることができないほど、フィリピンは複雑な歴史背景があることが分かってもらえたと思います。
実は、僕の叔母にとっての叔父さんは、第二次世界大戦中まだ16歳。彼の舞台は、満州からマニラに上陸し、敗戦も間のない状況でルソン島の北部に逃げ延びます。武器も食料もなく、血で血を洗うような悲惨な状況。叔母のお母さんは、彼が戦争に駆り出されてから会う事は2度とありませんでした。
死ぬ前にどこでどのように亡くなった可能性があるのか、そして手を合わせたい・・そんな依頼を受け、僕は叔母を連れ、外務省の資料にも残らなかった彼のたどった道そして、最期の場所になったであろう場所を様々な資料や現地日本人会の調査を経てたどり着くことに。それはマニラから車で8時間も掛かる場所。もう2度と故郷の土を踏むことをないことを察し、空腹と恐怖の状態で、今も変わらないこの星空を眺めていたのかと思うと、同じ日本人としてこの歴史を忘れる事、そして知らないという事はあってはならないと強く感じました。
短いですが、その時の戦跡を辿った記事がこちらです。このように文章で書くとあっという間の歴史ですが、歴史の当事者にとっては生涯を掛けて戦った人生そのものだったことがよくわかります。